2025年5月 作品 暦日下町
孝男 一幹 麻紗 篤樹 恵美子 佐恵子 富美
之介 一穂
◇道山 孝男
打ち返す波の気だるさ春の暮
春愁という季語がある。どこととなく気怠さのある春の気分である。繰り返し寄せる波にいっそう春愁の気分をかさねた。波へ感情移入した、波を借りた素晴らしい一句となった。
◇萩庭 一幹
若き日へ会ひに戻りぬ青嵐
山里を放浪していた時期があった。追分峠道の青嵐は忘れられない思い出である。実風景であると共に心象的な風景としても蘇るのである。絶えず、草丈が自分を隠し、露わにする。自問自答の葛藤を繰り返すのである。
◇渋谷 麻紗
学問所跡や実梅の当たり年
お茶の水の漢学、昌平坂校跡かとおもう。梅は花を賞で、実は漢方実用にと有用である。智慧の詰まった結実は、有望な前途のある若き学徒の多くを排出、象徴しているかのようだ。
◇遠藤 恵美子
温泉の貼り紙けふは菖蒲湯と
四国には、名湯がある。菖蒲湯は伝統ある、よき風習である。菖蒲は、武道の『尚武』に掛けて、心地よい汗をかいて、菖蒲湯の香りに身を包んだことだろう。いつまでも残したい季節の香りである。
◇柳 篤樹
糊強き湯宿の浴衣一人膳
一人ひとり毎に膳ごしらえをする宿のスタイルが定着した。かつては、繁忙期の一人旅の客は宿側で好まれなかった。糊の利きすぎた浴衣に、どことなく居心地が定まらず落ち着かない様子もある。山の一人旅だったか。
◇飯塚 佐恵子
繋がれし山羊の一声青嵐
山羊は青い世界へ解き放たれて、自在に飛び跳ね草を食む衝動を覚えたに違いない。青嵐は何かを想い起し、本来の自分の本姓へ立ち戻らせる力があるようだ。山羊も、その昔
険しい山岳の野生であったのだ。
◇松尾 龍之介
燕来る屋根の平らな屋形船
私は、毎日、屋形の舫い船を見て通っている。船の船頭が前後に移りやすく屋根は平らである。燕は巣作りに適しているかどうか偵察にやって来る。営巣仕掛けたが、船宿が猫を飼っていることが分かり、断念したようだった。近年、海猫が幅を利かせるようになった。
◇世古 一穂
万緑の底ゆく同行二人かな
何といっても『底』がよい。
心は弘法大師さんとの道連れである。万緑に、どっぷり浸かり人の世の一切の繁忙を逃れて、あるいは葛藤しながら、ひたすら歩く景が観えて来る。全体句から『山頭火』の『分け入っても分け入っても青い山』が見え隠れする。
評文 2025年4月
AIによる鑑賞
道山孝男:春深し風の詩を聴く散歩道
春の深まりを感じさせる中、風の奏でる詩を聴きながら歩く散歩道が描かれています。聴覚と視覚の情景が調和し、心安らぐ一瞬が伝わります。
萩庭一幹: 鳥雲に混沌の世を小さくして
鳥が群れをなし、雲のように広がる情景が、混沌とした世の中を小さく感じさせます。自然の壮大さを通じて人間社会の煩雑さを見つめ直す視点が鋭いです。
渋谷麻紗: 降り癖の花の雨なる西の京
京都の西のエリアを降り続ける「花の雨」が象徴する情景は、美しさと伝統の重みを宿しています。春の短い儚さを繊細に捉えています。
柳篤樹: 長瀞の渦に巻かるる花筏
長瀞の渦巻く流れに巻き込まれる花筏が描写されています。自然の力強さと、儚い花の命が交錯する美しさが際立つ作品です。
遠藤恵美子: 涅槃西風羽衣を舞ふ能舞台
涅槃の西風の中、羽衣が舞う能舞台の情景が仏教的な精神性と芸術の融合を表現しています。静寂と優雅さが感じられます。
飯塚佐恵子: いつの間に昭和百年春の雪
春の雪が、昭和の時代が100年を迎えたことに気づかせます。時の流れと季節の移ろいが交わる、懐かしくも儚い作品です。
安保富美子: ごうごうと芽吹く銀杏や墓地の空
銀杏が力強く芽吹く姿が、墓地の空という静寂な背景と対照的に描かれています。生命の息吹と物静かな雰囲気が印象的です。
松尾龍之介: 燕来る川浪荒き日なりけり
燕が渡ってくる日、その川の波が荒れ狂う情景が描かれています。春の自然の力強さと動的な美しさが感じられる作品です。
世古一穂: 打ち寄せしハングル文字や春渚
春の渚に押し寄せる波にハングル文字が浮かぶ情景が描かれています。自然の儚さと異文化との出会いが交錯する俳句です。
それぞれの作品が生き生きとした情景を映し出し、文化や自然の多様な側面を巧みに表現しています。どの作品が特に心に響きましたか?
2024年10月 作品 暦日下町
一木 孝男 一幹 盛人 麻紗 篤樹 純栄 恵美子 佐恵子 富美子 龍之介◇松田 純栄
宇治川の瀬音聞きいる秋の夜半
この一句は固有名詞と季語の構成が、決まっている。それ以上でも、それ以下でもない事実を淡々と述べている。それ故、この地への想像力と訪ねてみたい想いに駆られる。
◇道山 孝男
秋茄子目立たぬことも処世術
『雉も鳴かずば撃たれまいに』ではないが
矢面にたたず、やり過ごすというのは、私たち庶民の唯一の護身術でもある。それでいても、数生るナスビは地味にして味わいが深い。
◇萩庭 一幹
草の露踏みて上りぬ宮土俵
素人相撲の大会に出逢ったった。若者たちは秋の日差しのもと、草の露を踏みしめ乍ら出番を待っていた。場所は靖国神社の宮土俵、逞しい若者達の歓声が上がっていた。
◇原 盛人
庭の木々雹に剪定されしかな
雹は夏の季語であり、天上で急激に氷った粒が一斉に降って来る。寒冷前線の雹嵐は、草木を散々に痛めつけて去る。葉は穴だらけでもぎり取って行く。これも気性の温暖化と。
◇渋谷 麻紗
栗を煮て一人の夜を愉しめり
童謡に『里の秋』がある、『静かな静かな里の秋、ああ母さんと栗の実煮てます~』を想い起こした。この場合は、独りの栗の実で更にさみしいはずだが、何故か愉しい。
◇柳 篤樹
たをやかに揺れて紫苑の丈くらべ
コスモスや紫苑は身を嫋やかに保つことで、身を護っている。丈を同じぐらいに保つことも風から身を護る術なのだろう。『丈くらべ』は、みな同じ丈と見てとってのことかと。
◇遠藤 恵美子
友の待つ街への旅や秋うらら
何年も会ってなくとも、俳句仲間は、心通わせているので、全く違和感がない。瞬時に昔に戻り、話題にも事欠かない。全く『友遠方より来る亦楽しからずや~』の漢詩そのものである。
◇飯塚 佐恵子
風過ぎるたび力抜き秋の草
もう、夏の猛暑や旱と闘わなくてもよい。脱力の柔軟性こそ、草木の生きる処世術。秋草も花を咲かせ、草の実を遠くへ運んでもらう時季がやって来たのだ。
◇安保 富美子
体内にざらつきしもの秋風に
『ざらつきしもの』に突き当たった。この、ざらつきしものとは『ざわめきしもの』と言い換えてもよいのかもしれない。秋風と共に何か触発されるものが生まれたのだろうか。
◇松尾 龍之介
味噌汁に普段のこころ野分あと
みそ汁は、母の味であり、育った家庭のあじである。関西、関東、その地域にによっても異なってくる。『普段のこころ』とは、それぞれの多様性を包み込んでの味なのだ。
◇世古 一穂
捨て石に腰を預けて小春かな 配石は作庭の重要な要素である。捨て石は他の石を際立てるための脇役の石で、つい坐りたくなる位置にある。『捨石』は本来、囲碁の作戦上の囮石から来ている。
2023年12月 下町通信句会 一句観賞
◇一木 一木何よりも妻居てうれし去年今年
作者の断言は、何よりの幸せの極みである。今年も何とかやり過ごし、新たな年を妻と共に迎えることは、長年の伴侶と共に暮らして来た歳月への感謝でもある。それは『ご馳走さま』と云うよりは吾も『いただきます』と。