一句鑑賞

2025年03月27日 09:54

2024年10月 作品 暦日下町

一木 孝男  一幹 盛人 麻紗 篤樹 純栄 恵美子 佐恵子 富美子 龍之介

◇松田 純栄

宇治川の瀬音聞きいる秋の夜半

この一句は固有名詞と季語の構成が、決まっている。それ以上でも、それ以下でもない事実を淡々と述べている。それ故、この地への想像力と訪ねてみたい想いに駆られる。

◇道山 孝男

秋茄子目立たぬことも処世術

『雉も鳴かずば撃たれまいに』ではないが

矢面にたたず、やり過ごすというのは、私たち庶民の唯一の護身術でもある。それでいても、数生るナスビは地味にして味わいが深い。

◇萩庭 一幹

草の露踏みて上りぬ宮土俵

素人相撲の大会に出逢ったった。若者たちは秋の日差しのもと、草の露を踏みしめ乍ら出番を待っていた。場所は靖国神社の宮土俵、逞しい若者達の歓声が上がっていた。

◇原 盛人

庭の木々雹に剪定されしかな

雹は夏の季語であり、天上で急激に氷った粒が一斉に降って来る。寒冷前線の雹嵐は、草木を散々に痛めつけて去る。葉は穴だらけでもぎり取って行く。これも気性の温暖化と。

◇渋谷 麻紗

栗を煮て一人の夜を愉しめり

童謡に『里の秋』がある、『静かな静かな里の秋、ああ母さんと栗の実煮てます~』を想い起こした。この場合は、独りの栗の実で更にさみしいはずだが、何故か愉しい。

◇柳 篤樹

たをやかに揺れて紫苑の丈くらべ

コスモスや紫苑は身を嫋やかに保つことで、身を護っている。丈を同じぐらいに保つことも風から身を護る術なのだろう。『丈くらべ』は、みな同じ丈と見てとってのことかと。 ◇遠藤 恵美子

友の待つ街への旅や秋うらら

何年も会ってなくとも、俳句仲間は、心通わせているので、全く違和感がない。瞬時に昔に戻り、話題にも事欠かない。全く『友遠方より来る亦楽しからずや~』の漢詩そのものである。

◇飯塚 佐恵子

風過ぎるたび力抜き秋の草

もう、夏の猛暑や旱と闘わなくてもよい。脱力の柔軟性こそ、草木の生きる処世術。秋草も花を咲かせ、草の実を遠くへ運んでもらう時季がやって来たのだ。

◇安保 富美子

体内にざらつきしもの秋風に

『ざらつきしもの』に突き当たった。この、ざらつきしものとは『ざわめきしもの』と言い換えてもよいのかもしれない。秋風と共に何か触発されるものが生まれたのだろうか。

◇松尾 龍之介

味噌汁に普段のこころ野分あと

みそ汁は、母の味であり、育った家庭のあじである。関西、関東、その地域にによっても異なってくる。『普段のこころ』とは、それぞれの多様性を包み込んでの味なのだ。

◇世古 一穂

捨て石に腰を預けて小春かな

配石は作庭の重要な要素である。捨て石は他の石を際立てるための脇役の石で、つい坐りたくなる位置にある。『捨石』は本来、囲碁の作戦上の囮石から来ている。