合同句集に寄せて
発足三十周年記念
合同句集
したまち
山歴下町句会
前澤 宏光
私の山暦入門は昭和五十九年(一九八四年)で、丁度山歴創刊五周年の年であった。
その翌年の七月二十日、山歴下町句会が発足した。その時の模様は、平成九年に刊行した。
『季語別合同句集 下町歳時記』の中で松田純栄さんが書いている。
山歴誌には「句会報」という欄が設けられているが、バックナンバーを拾ってみても、
下町句会第一回の「句会報」は掲載されていない。昭和六十一年一月号の「句会報」欄に
「下町・青杉合同吟行会(九月)」があって、二十二名の句が載っている。
同欄に単独で載るのは、昭和六十一年七月号の「下町句会(3月)」が初めてである。
以下が、それである。
終日の雨となりたる四温かな 嘉門
春寒の海鵜大きく羽ばたける 国久
鳥鳴ける谷津の干潟の夕霞 耕志
原宿のロダン群像春を呼ぶ 純栄
啓蟄の旅や女の顔輝く 竹子
春灯の駅より低し江東区 均
春光を手にすくってや峡の川 英男
鳥雲に夕刊のはや貼られたる 宏光
撮られゐる子は諸手あげ春薺 ひろし
老幹の漲る気骨梅白し 冬木
下町や竿竹売の声長閑 むめ
駿河富士山又山の遠霞 ゆき子
*俳号の冬木は現、一幹。
下町句会 渋谷麻紗
私が山歴に入会したのは平成三年である。子育てに一区切りがつき仕事も軌道に乗ったので、「自分のための学び」を考えて俳句を選んだ。短詩の持つ歯切れの良さとリズムに魅せられたからである。
とはいえ、俳句は一度も作ったことはなかった。仕事がオフの火曜日、山歴主宰の青柳志解樹先生のの荻窪俳句教室に入ることができ、私の俳句が始まった。青柳先生との出合いに感謝である。
半年後に青杉句会を紹介され、今は鬼籍に入られている諸先輩から句会のルールや楽しさを学んだ。数年後、夫の遺志を継いだ家業が忙しく青杉句会に通えなくなり、土曜日の仕事の帰りに間に合う下町句会にお世話になった。それから十年ほど経つ。
下町句会はベテラン揃い。ミニ吟行や句会後の飲み会で二次
句会が行われるなど、学ぶことが多く休まないよう心がけている。そして、俳句を作るたびに日本人の感性の豊かさと言葉の美しさに感嘆させられる。
今後も無理せずに続けていきたいと思う。
原 盛人
平成二十三年より五年間三百句ののうちからしぼった。
山暦の会員なので植物の句が多いのは当然であるが、とにかくむずかしいの一言につきる。
高尾山の句が多いのはガイドをしているから仕方あるまい。八王子に住んで四十五年身体も家もがたが来ているが、のんびりと急ぐな急ぐなの心境である。
萩庭 一幹
時代の波もあって、俳句人口は数を減らしているのが現状である。そのなかで、
『自然を尊び、自然に学ぶ』の山暦俳句会の理念に感銘し同調して来た面々の
意気と情熱は冷めることなく今日に至っている、その年数は三十五年にも届く。
もとより、俳句の才能などあるべくもないが、作り続ける気概は持ちたいものと
おもっている。いつか啓示を受けて一句を授かることもあろうと自分自身に期待
している。仲間の佳句に出合うのも楽しみである。俳句は共感の文芸であり、仲間
無しでは成り立たない。句会は己の後姿を見て背を正す合わせ鏡のような役割を果たす
ものなのである。吟行会は小さな旅の感覚をもちながら、それぞれの個性を発揮する
楽しさがある。
兎に角作り続けよう。歩こう。